たまには洋行
カナダ・ノバスコシア州 2003・9・1〜8 2年ぶりの海外
カナダの東の端、ボストンの北にあるノバスコシア州ハリファックスという街に廃棄物資源化政策現地視察にいった。7月末に話があってばたばたと決まった。カンキョーにこだわる28人のメンバーでのスタディ・ツアーである。
ノバスコシア州は焼却に頼らないゴミの減量化に成功した州。 「Too Good To Waste」ということで「A World Leader in Recycling」の実地見学に大挙して押し寄せたというわけである。
日本から13000キロ離れている。「はるばる」という言葉がぴったり。 日本との時差は12時間。昼と夜がまったく反対。
なぜかハリファックスの空港で手間取って(スタディ・ツアーが不思議だったのかイミグレーションの女の子がなかなか通してくれなかった)、ホテルについたら午前になっていた。何十時間寝てないのか、くたくた状態。で、その翌日の午前中はゆっくりすることにして、港のあたりの散歩。
湾になっているがはるか向こうは大西洋である。海鳥までのどかそうな様子である。
寒いだろうと予想していたが、日本で予想していたよりずっと寒くってさっそくスーパーで上着を買った。
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9月2日の午後からハードスケジュールの開始。まず、州政府オフィスでのオリエンテーション、夕方は歓迎レセプションが開催された。
アメリカの州政府だと権限も大きいのだろうが、ノバスコシア州は人口94万人の小さな州である。日本の地方自治体(県レベル)の政策を実施する法的根拠となる州法と第三者機関によるシステム作りが成功したってところ。
カナダは国土が広いので廃棄物は埋めていた。かつては、最終処分場はいっぱいあったのである。ところが90年代に近隣住民の最終処分場建設反対運動が起こった。
このような「処分場を建設できなくなった」という必要性に迫られてゴミの減量化に取り組んだというのが始まりだそうだ。年間一人当たりのゴミの量は1989年の760キロから2000年には380キロに減ったそうである。
どのようにして減らしたかというと、、、 要は州法を作ってRRFB(Resource Recovery Fund Board 11人のメンバーで構成、メンバーは州環境大臣によって選ばれる)というNGOを作り、減量化に取り組んだ。行政主導ではない第三者機関に任せ、その費用は容器類とタイヤのデポジット制度によってまかなったという方法である。
新しいシステムがあるわけではなく、可能な方法を組み合わせた。そして、実行した→「ローテクの世界の成功」というだけのことである。
デポジットは日本でも八丈島などで実施されている。ノバスコシア州のデポジットは大規模である。子供がジュースのビンを返しにいって、10円を返してくれるというレベルではない。
Deposit/Refund Programは、飲料類を売ったときにまず、10セント分を上乗せしたお金をもらう。回収拠点であるEnviro-Deposit(州全体で84ヶ所)に持っていくと5セント分を返してもらえる。回収率は82%である。
この差額(ROCAPS2000)を使ってシステムを回している。補助金を当てにする政策ではない。約900万ドルのうち、500万ドルは各自治体に、230万ドルは教育普及プログラムに、残りをvalue-added businessに投資するといった使い方をしている。
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<スーパーで説明をしてくれた現場責任者と通訳の池田さん>
<スーパーから出される段ボール類を圧縮する機械 3人がかりで実演してくれた>
キーワードは「デポジット」「コンポスト」「リサイクル商品」
この仕組みを回しているコアになっている組織が「RRFB」である。行政が中心になあっているわけではない。その後押しをしている考え方は「徹底した市民参加」と「スチュワードシップ制」(企業の社会的責任)である。
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具体的な処理方法としては、家庭からのゴミは3種類(正確には4種類)に分ける。生ゴミ収集用のグリーンのcompostainer(コンポスト用の生ゴミをいれる容器)、紙・アルミ・スチール・ガラスを収集するためのブルーバック(透明の紙用パックもある)、そして資源化できず、最終処分場へ行く黒い袋である。
家庭から出される段階での分別はこの程度だから、細かく分別されているわけではない。 ただし、デポジット対象になっている容器類やタイヤがあるので、これらはEnviro-Depotと呼ばれる回収拠点に持ち込まれる。
州内に84カ所あるEnviro-Depotのひとつを見学に行ったとき、ちょうど近所の奥さんが両手いっぱいの容器類を持ち込んでいた。「10ドル分ある」と自己申告すると、そのデポジット金額をその場で返却してもらえる。 このような容器類のデポジットシステムがあるのでブルーバッグに入る容器類は6〜10%程度だそな。。
<タイヤのリサイクル工場 リサイクルチップはサッカー場、野球場の芝生の下に使われる>
これらのブルーバッグは収集車で処分施設に運ばれる。これは日本と同じようなシステム。収集車から投げ出されたゴミの山をベルトコンベヤー式に手で分別していく。ここはローテクの世界である。
<紙・容器類(ブルーバッグ)が分別処理施設に運ばれたところ>
分別された紙・アルミ・スチール・ビン・ペットボトル類はそれぞれ再資源化施設に運ばれる。紙やビニールなどは中国に運ばれる分が多いそうだ。
<再生された紙ロールの山>
ゴミの量の半分は生ゴミだそうで、この生ゴミを分けて収集、これをコンポスト処理するというのが、ここの制度の目玉である。コンポストには興味がなかったので、家庭用の小さなコンポストしか知らなかったが、ここのコンポストは大きな工場である(システムは荏原製作所製だそうな)。
3ヶ所の堆肥化施設を見学したが、コンポストで嫌われる臭い(日本の学校でコンポストをやろうとすると近所から臭いがいやがられるそうだ)を消すためのバイオフィルターもかなり大がかりである。そして、これらを堆肥化していく。
<コンポスト工場外のバイオフィルター施設 臭いを消す装置>
ガーデニングや芝生用の土など、用途は広いそう。ただし、農業にはあまり使っていないそうだ(そもそも北の地なので農業は盛んではない)。
黒い袋(資源化できないゴミ)だけが処分場に運ばれる。ただし、黒袋を埋立処理する前にもう一度あけてコンポストできるものはコンポストに回す、もう捨てるしかないものだけを最終処分場に運ぶ。
日本ではまず、焼却する。国土の広いカナダでは、もともと焼却という習慣がなかったそうだ。ところが、臭いがきつい等で近所から嫌われる。住民の反対で新たな処分場を作ることができない、ということで焼却に頼らず、かつ、最終処分量を減らす「ノバスコシア方式」が始まった。<まさしく、必要は発明の母である>
わたしたちが訪ねた最終処分場は日本でいうところの管理型処分場である。25年契約で300万トン(1年に12万トン、現在までに5年経過)処理できます。閉鎖後も25年間管理する責任をもつ契約内容となっている。
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新しいのはRRFBというコアになる第三者機関(not-for-profit organization)を中心に企業も、市民も、行政も参加したシステムになっていることだけである(ここができるかどうかが肝心だが)。ローテクの世界だと聞いていたが、確かにその通りである。日本でよくきかれるガス化溶融炉によって何でも燃やしてしまう制度と対極の制度である。
だから新たな雇用を創設することもできる。3000人の新たな雇用が生み出されたそうである。
ただ、労働環境は悪い。処理施設の臭い、紙リサイクルやタイヤリサイクル工場の騒音、ガマンできる程度をはるかに越している。 典型的な3Kである。これらの施設で働く人たちがいるので「雇用の場」を創設しているが、このような拙悪な施設で働きたい日本人はいるのかな、というギモンもある。日本では中国人の研修生や南米からはたらきにきている人たちが就業するようになるかもしれない。どのように応用していったらいいのか、これから考えていきたいと思っている。
こうして毎日ヘルメットをかぶって、バスにのってあっちのリサイクル工場、こっちの処分場見学と毎日へとへとと出かけていたが5日で終わり。最後はBlomidon Innという趣のあるレストラン&ホテルで食事会。
<視察最終日のフェアウエルの会場で。隣がボブさん夫妻で、必要に迫られて20年ぶりに英語を話したようなかんじ>
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最終日は唯一の観光の日。なんともいえない集団で行動する最終日となる。
<ペギー岬 この先に広がるのは北大西洋 いつ来てももやっているそうな>
Peggy Coveは大西洋の荒波に面した60人ばかりの集落。観光バスや自家用車がいっぱい駐車してあるので、けっこう観光地になっている。Peggyというドイツ人の女の子が船から遭難して、ひとりだけこの地にたどり着いた。発見されるまで18年間ひとりで過ごした入り江というのが名前の由来だそだ。かもめやいたちもいた。荒涼とした風景である。
ただ、こんな観光地に日本人が27人(ひとりは飛行機の都合で先に出発)も押し寄せたのだから、ペギー岬も一時的に日本人だらけとなる。
その後、5年前のスイスエア航空機事故で遭難した人たちの慰霊碑を訪れた。5年前1998年9月2日の事故は覚えているが、その場所がノバスコシアだなんて全然知らなかった。こうして事故地を訪ねるなんて不思議な気がする。
ハリファックス市内にPublic Parkという大きな公園があってタイタニック号の小さな模型が浮かべてあった。「どうして?」と聞くと事故の時、ハリファックスから救助船を出して、遺体の収容をしたそうな。遭難者のお墓もあるそうだ。
<スイスエアー事故の慰霊碑>
それから向かったのがルナバーグという世界遺産の街。これは対岸から眺めたところ。確かにきれいなリゾート地であるが、ヨーロッパのどこにでもある街って感じでもある。
これはルナバーグの丘のうえにあるアカデミー。小学校か中学校の校舎。学校とは思えないような綺麗な建物である。
このルナバーグで4時まで自由行動。なぜか友人がカナダ国旗の形のビンに入ったメイプルシロップを探して街のギフトショップをいったりきたり。27人もの日本人がうろうろしているのだから、異様な光景だったろう。
それから1時間以上かけてハリファックスの街にもどる。運転手さんは日本人観光客が珍しいらしく、ミョーに親切。直接ホテルに戻る予定だったのに、Public Parkに横付けしてくれて、1時間ほど散策する。土曜日だったので結婚式が2組あった。
そして最後の夜は日本食の店に。こんな小さな街にもJapanese Restaurantが3,4軒あった。千葉に住んでいたというハーフの男の子が流暢な日本語でオーダーをとってくれた。
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・・・・ということでみんなのつかのまのバカンスは終わった。みんなはほとんど寝ることなく翌朝4時半のチェックアウトで去っていった。
ところが、他のメンバーから取り残された数人(飛行機の関係)は翌日7日も朝9時から市内をぶらぶら観光となった(ほかにやることがない!)。
留学生が案内してくれたノバスコシア州で一番大きい大学。Dalhouse University.「赤毛のアン」の作者(モントゴメリーだっけ?)の母校でもあるらしい。ここハリファックスからプリンスエドワード島まで片道4時間。強行軍で行ってみようかと思ったが誰もいっしょにいってくれなくて断念。
で、最後はこの水陸両用のハーバーホッパーに乗って「シタデル(函館の五稜郭のモデルになった要塞)」や海を見学する。ハリファックスは軍 港だそうで、カナダ海軍の軍艦が何隻も泊まっていた。去年は自衛隊の船もきたそうだ。
最後の夜はロブスターではなくて(2日前に食べたので)、23年ぶりのエスカルゴ。24歳のとき母の友人のバンクーバー駐在の銀行支店長のところに強引に押し掛けてごちそうになって以来である。それにキーズという地ビール。シーフードは実に美味しかった。
時差12時間はヨーロッパの時差より厳しい。1週間くらいは時差ぼけが大変であった。
でも、こうしてアップアップの旅が終わって日本に帰ると「あの濃〜いメンバーたち」が懐かしい〜と思われる日々である。