エネルギー政策と京都議定書

No.18 京都議定書〜ネバーギブアップね〜2004・5・5

 私個人は思いつきと行動力で生きているような思慮の足りない人種なのですが、思慮 深い日本政府は絶対そのような軽率なことはしません。ある目標を実現するための政 策を日本政府が(軽率にも)他の欧米諸国に率先して始めることは絶対ありません。 文明開化の明治からの「模倣原則」、古き良き伝統が現在も生き続けています。

  日本政府は温室効果ガスを2010年には1990年比6%減らすという国際公約を批准しながら、苦しい数字あわせの「地球温暖化対策推進大綱」を2年前に発表しただけで、努力らしい努力も政策らしい政策も掲げないままギブアップしたようです。

  環境省は4月16日、2010年の温室効果ガス排出量が1990年比4%増える見通しで、京 都議定書の達成は困難とする試算をまとめました。新規原発立地を推進してCO2を削 減しようとの目論見は玉砕です。

 1998年には20基新設予定だったのが、2002年には10〜13 基に下方修正。今年夏にまとめる新しい大綱では5基にまで減りました。電力自由化 と原子力推進という「両立不可能な政策の両方」をすすめようという経済産業省の責任を負わない2枚舌体質もさすがに苦しくなってきたようですが政策の転換は未だにないようです。

  一方で新エネも「切り札なし」当てにならない、と切り捨てています。
  ホンキで自然エネルギーを増やそうという政策をとっていないのだからそれでなくて も(現在は)経済性のない自然エネルギーが安い化石燃料にかなうはずがない。増えるはずがないのが現実です。

  原発の代替→自然エネルギー、原油の代替→天然ガス  くらいをホンキで考えてい るのなら、いくらでも政策は可能だったはずですが、現実には電力供給の30%程度を占める原子力へと税金は流れています。

  技術革新がダメなら政策誘導という手があるのに、いつまでたっても補助金政策と規 制的手段くらいしか思い浮かばない。環境税という税金の本質とは全く異なるピグー 税は本来の意義(その効果が高いほど税収が減っていく。財源調達目的の税の本質とは異なるものです)を論ずることなく、小手先のガソリン税の増税程度の議論のまま 行き詰まっています。

  ・・・というわけで、何も政策らしい政策を打ち出さないままギブアップ宣言をした 環境省をはじめとする政府の無策には心底、失望してしまいます。こうなることは分 かっていたのに思い切った政策は打ち出さない。

 一方で環境NGOとか市民団体はそ れぞれの主張へのこだわりが強く、自民党のように「清濁併せ飲む」ことはしない。 従って、力を持たない反対勢力(反対だけして代替案を出さない)のように思われています。

  現行の審議会のような「一応、みなさまのご意見はうかがいました」というガス抜きではなく、ホンキで議論できる場はないのでしょうか? 全国規模でなくても、あちこちで環境を守る動きは広まっているのだから、これらの力を合わせて政府をも動かすようなパワーにならないかな、って思っています。

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と、一気に普段思っていること〜官僚、とくに、日本を引っ張っていると自他ともに 認め、かつ、自負していらっしゃるキャリアのみなさまの悪口になってしまいました。 これは個人的な責任ではなく制度が悪いのだと思います。

 誰だって3年ごとにポスト がかわるのなら「せめて自分の在任中はつつがなきように」と念じて仕事をしてしま います。小手先の逃げの戦術に終始してしまいます。

  これほど複雑な時代にジェネラリストだけで仕事ができるわけはありません。3年ご とにあっちこっちとキャリアを積んでいくうちに「先例主義」の洗礼を受け、思い切 った政策など思いつかない・実行できない体質に陥っているように思います。いろんなポストを経験することも大事ですが、せっかくの能力が活かされる制度になってい ないと思います。

  この矛盾体質は当の官僚のみなさまや地方自治体の職員をされている方々こそ感じて いる官僚人事制度の欠陥だと思います。何度聞いても官僚言葉「・・・でございます」 には慣れ親しむことができません。言葉だけの公僕ではなく、実際に仕事をしている 人たちが責任を負う制度に変えてもらいたいものです。

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